ピサの思い出!55mからAppleを落としたら…ガリレオもビックリする結果が待っていた!【前編】

イタリア

近況報告

みなさん、こんにちは!アオテアロアです。
最後の投稿からこんなにも時間が流れてしまいました…
みなさん、お元気でお過ごしでしょうか?
去年の紅葉から今日までブログの更新をしていませんでしたが、私は健康に毎日を過ごしています。

添乗員をしていた頃は日本と海外を行ったり来たりして毎日を忙しく過ごしていたので、時間の流れが早いのだと思っていましたが…違いました。規則正しい毎日を過ごしていても、時間の流れは想像以上に早いです。

ひまわり

昔、あるお客様が「時間が流れるスピードは年齢に比例する」と教えてくれました。

「人生を車に例えるなら、1年という距離を10才の時は時速10km/h、20才の時は時速20km/h…70才になれば時速70km/hのスピードで走っていく、だから年を取れば取るほど時間の流れが早くなるんだよ」なるほど、確かにその通りです。

子供の時は運転になれていないからゆっくり走るので周りの景色もよく見えます。でも年齢と共に景色を見ながら運転ができるようになり、運転技術が身につけばスピードも出せます。スピードが出せるようになると、前に向かってどんどん走っていきます。自分で意識しなければスピード調整ができません。でも、このコロナが世界中の人たちを「一斉ストップ」させました。みんなビックリしてブレーキを踏みました。

そして一度立ち止まった後、各々が各々のタイミングでまた走り出しました。私は添乗員をしていた時とは違う道を違うスピードで走ることを選択しました。最初は不安でしたが「新しい景色」は新鮮で、その景色をよく見ようと走るスピードをちょっと落としたら…見慣れたものが見えてきました。その中のひとつがブログです。久しぶりにブログを書いてみよう!と思えたので、また思いつくままに書いてみようと思います。

仕事で「自分クイズ」を考えたら、逆に自分でもビックリした

突然ですがクイズです!

「私は海外添乗員の仕事で地球を何周したでしょう?」

先日、iPadの中に入っている「keynote」というプレゼンテーションアプリで自己紹介クイズを作りました。いくつかの質問の中で我ながら面白い質問だなと思ったのが「コロナ前は海外添乗員の仕事をしていて海外へよく行っていました。さて、私は地球を何周したでしょう?」というクイズです。

クイズ【ヒント】
・地球一周は約40,000km
・この仕事を15年続けていました。1年間で22回くらい、海外へ行っていました
・主にヨーロッパへ行っていました。ヨーロッパ往復は約20,000kmです

計算の速い児童なら、すぐに答えを導き出せると思いますが…2択問題にしてみました。

A:165周 / B:203周

正解はAです!
15年×22回×20,000km(ヨーロッパ往復)=6,600,000kmが今まで移動した距離
6,600,000km÷40,000km(地球1周)=165周

こたえ

ざっくりとした計算で正しい数字ではないかもですが、こうしてみると結構な移動距離に自分でもびっくりしました。ちなみに、この計算で飛行機に乗っている時間を計算すると…

15年×22回×24時間(ヨーロッパ往復の時間)=7,920時間…すごい時間!
日数に換算すると…7,920時間÷24時間(一日24時間)=330日

雲の上での滞在時間、なんと330日!!!
すごい移動時間です…
そしてもっとすごい真実が…

機内食を喜んで食されているお客様には言い難い事実ですが…
実は機内食は超高カロリー!!!
1食あたり800~1,000カロリー!
ヨーロッパ往復だと2回、食事が出ます。メイン1回と軽食1回。

これにジュースなど糖分が多く高カロリーな飲み物を注文し、機内で出されるお菓子やナッツを全部食べると、1回12時間のフライトにつき機内で摂取する総カロリーは…数字で表すのは精神衛生上よくないのであえて書きませんが、当然カロリーオーバー!1年も機内食を食べていたなんて…

実は機内食はカロリーだけではなく、他の問題もあります。上空は気圧の関係などで味覚が鈍るため、砂糖も塩も地上で作る時より多く使われる上、食事を日持ちさせるために「多量の添加物」が使われています。

機内食※機内食の写真がない!これはどこかのホテルのボックス朝食です…

機内にコンビニで買ったものを持ち込んで食べていると、よくお客様に「機内食、食べないのですか?」と声をかけられました。そんな時は「いつも機内食ばかり食べているので、今日はお弁当を買いました。」と返事をしていました。

私たち添乗員は仕事柄、食べる回数が多いので機内食の事実を知ってしまうと健康が気になります…
たまに飛行機に乗る方は機内食を楽しんでいただいても問題ないと思います。(コンビニ食もいろんな添加物が使われていますよ、という声もきこえてきそうですが…)

ちなみに小学生にこのクイズをする時、そもそも「添乗員」という職業自体、悲しいかな、全く認知されていないので、そこから説明が必要です…

しかし、この「添乗員」という職業の説明がなかなか難しい!

「旅行へ行くときにお客様に同行して、安全に旅ができるようお手伝いする仕事です…」と言ったところで、そもそも小学生が添乗員と一緒に旅行をする機会はほとんどなく、旅行は家族でするものだから「旅に同行する、旅のお手伝い」といわれてもピンとくる訳もなく、想像するのが難しい。そのうえ、林間学習や修学旅行へ行ったことがある児童でも、その時に同行したであろう添乗員の存在を覚えていないことがほとんど…

添乗員は「旅の思い出」の影に隠れて忘れ去られてしまう存在なのかもしれませんが、私はそれでいいと思っています。なぜなら、その「忘れられない旅」のお手伝いをしたのは間違いなく添乗員だということを、お客様が忘れてしまっても私たち添乗員は覚えているのだから…

空

お客様にとって「忘れられない旅」は添乗員にとっても忘れられない旅です。だからこうして、ブログを書くことができます。

今まで出会ったお客様、特にとんでもないハプニングや大嵐を巻き起こしてくれたお客様、あの時は対応するのが大変だったけれど、今は感謝の気持ちでいっぱいです。なぜなら私の添乗人生を、こんなにも楽しく思い出深いものにしてくれたのだから…そんな大切な思い出のひとつを紹介したいと思います。

思い出のキーワードを見つけた「偉人の本棚」

小学校の教室には大抵本棚が置いてあり、休み時間や自習の時に児童たちは本を読んでいます。ある教室に「偉人の本棚」がありました。そこには日本だけではなく海外の偉人の本も並んでいました。ちょうど通りがかった児童に

「この中に読んだことのある本ある?」と聞くと
「うん、あるよ!ナイチンゲール!」
なるほど、女の子は女性の偉人に興味を持つのかな?

次に男の子に同じ質問をしてみました。
「織田信長を読んだよ!」まあ納得の答え。
「この本、読んだことある?」私はある1冊の本を指さして尋ねました。
「だれ?聞いたことない。知らない」と言って何処かへ行ってしまいました。
私が指さした本は…「ガリレオ・ガリレイ」でした。

(そっか、知らないか…興味ないか…だよね、でもぜひ読んでほしいんだけどな、この人もすごい人なんだから…)とココロの中で独り言をつぶやきながら、本をパラパラとめくってみました。確かに小学生には難しいかも…

私もガリレオの本を読んだのは添乗員になってから…イタリアへ行かなければ読んでいなかったかも?(笑)

ピサ

去年から小学3年生の国語に「外国をしょうかいしよう」という単元が新しく入り、そのため外国について調べる機会が増えました。小学生で調べられることには限界があるので、チャンスが有れば私が知っている外国のことをいろいろ紹介したいです。

小学生がこのブログを読むことはないと思いますが…ガリレオの話と今回の思い出は密接な??繋がりがあるので、思い出を書く前にガリレオについて紹介したいと思います。

ガリレオのお話

読んでほしい偉人の本の1冊に上げたガリレオ・ガリレイ、みなさんはご存知ですか?

イタリア生まれの有名な物理学者であり天文学者です。興味のある方は図書館で本を借りて読んでみてください…と言っても今はネットの時代、検索する方が簡単ですよね?小学生も調べる時は主にネット検索をしています(笑)

でもみなさんにはどちらの手間も不要です!ここに児童書に書かれているガリレオのお話を凝縮して書いてみました!

ガリレオが生まれたのは1564年2月15日、父ビンチェンツィオと母ジュリアの長男として誕生、一家はピサで暮らしていました。父ビンチェンツィオは有名な音楽家でリュート演奏者でした。また音楽の研究に数学を取り入れた人物としても有名で、思想家としても評判の高い人でした。閉鎖的な考えが嫌いだったのでガリレオを学校には通わせず、家庭教師をつけて家で勉強をさせていました。

ガリレオが11歳の時に一家でフィレンツェに引っ越しました。当時のフィレンツェは学問や芸術の中心地として発展のさなかにありました。しかし経済的余裕がなくなった父親はガリレオを学校ではなく、近くの修道院へ入れ、そこで勉強をさせました。ガリレオは熱心に勉強をした結果、将来は聖職者になりたいと言い出し、父親は慌てて修道院をやめさせて家に戻しました。

※フィレンツェの大聖堂

17歳の時にピサ大学に入学、父親はガリレオを医者にさせたいと思っていました。医者は当時も高収入の職業でした。しかしガリレオはどうしても医学には興味をもつことができませんでした。それどころか、大学で学んだ数学に興味を持ち始め数学の勉強に没頭していきまいた。

20歳の頃、学生だったガリレオはピサの大聖堂でミサに参加し、聖職者のたいくつな話を聞くともなく聞いている時に、ふと目にとまった「風で揺れているランプ」を見て「振り子の等時性」を思いつきました。振り子が揺れる時に1往復にかかる時間が同じであるという法則で、今のように正確な時計がない時代、自分の脈拍で時間を測ったと言われています。

21歳の時にピサ大学を退学し家庭教師を始めました。当時は大学の学位よりその人の評判の方が重視される時代、数学に長けていたガリレオは裕福な家で家庭教師をしたり、科学に興味のある貴族や商人などにいろいろなことを教えて収入を得るようになりました。

27歳の時にピサ大学の数学教授の席に空きができ、つてを通じて学位を取らずに出たピサ大学の数学教授の仕事を始めました。しかし数学教授の給料は安く、医学部教授の給料の13分の1しかありませんでした。この年、父親がなくなり一家の大黒柱になりました。安いとは言え、定職についたことで一定の収入を手に入れることができ、生活が安定しました。

この頃、ピサの斜塔でかの有名な実験が行われました。ピサの斜塔は当時も傾いていて、てっぺんの垂直の位置から約5度、傾いていました。ここで行われたのは「落下の法則」の実験です。

ピサの斜塔

当時のキリスト教の世界では、教会が認めた考え方が正しいとされていて、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスが唱えた「重いものは軽いものよりも速く落下する」という考えを、誰もが信じていました。これは、落体の速さはその重さに比例する…つまり、重さが2倍の物体は2倍の速さで落ちるという考え方で、この考えに疑問を持つ人はほとんどいませんでした。

しかしガリレオはこの考えとは全く異なる考えを発見しました。それは「重力による物体の落下速度は、その物体の質量の大きさによらない」という考えです。空気抵抗がなければどんな物体も同じスピードで落下すると唱えました。

ガリレオは「これだ!」と何か閃いたらとことん実験をし、その実験結果を数学的に分析するという、今までにはなかった手法で答えを追求しました。余談ですが福山雅治さん主演の「ガリレオ」というドラマがありましたが、福山さん演じる湯川学がとことん実験と数式にこだわるのはガリレオからきています。だからタイトルもガリレオ??

そんなガリレオがピサで行った実験とは、比較的空気抵抗を受けにくい、大きい鉄の玉と小さい鉄の玉を用意して、同時に落下させるという実験です。アリストテレスの考えが正しければ、大きい鉄の玉が先に着地、その後小さい鉄の玉が着地する…はずですが、実験ではどちらも同時に着地しました。もちろん、この実験だけではなく、ガリレオはいろんな方法で落下の法則の実験を行っています。

当時の人々の暮らしにはカトリック教会が大きく関わり、その影響力はとても強く、16世紀のヨーロッパの人々にとって教会の教えは絶対的なものでした。もし教会の意見や考えに反対するようなことを言えば宗教裁判にかけられ、自分の考えが間違っていたと認めなければ「異端者」と呼ばれて、拷問にかけられたり投獄されたりしました。

松ぼっくり

※バチカンの中庭にある松ぼっくりと孔雀のブロンズ像

実際、ガリレオはいろんな発見や研究から、教会の考えに異を唱えるような発言をして宗教裁判にかけられています。その最も問題視された考えが「地動説」です。

当時は「太陽が地球の周りを回っている」という天動説が信じられていました。しかしガリレオはこれとは全く反対の「地球が太陽の周りを回っている」という地動説を提唱しました。ガリレオより前に、コペルニクスが地動説を唱えましたが裏付ける証拠がなかったため、教会にも人々にも受け入れられませんでした。

ガリレオはこの地動説を証明するために、手製の望遠鏡で天体観測を行いました。望遠鏡自体はすでにオランダで発明されていましたが、更に改良を加えてなんと、当時の望遠鏡より20倍もよく見える望遠鏡を作り出しました。その望遠鏡を使って月の表面を観察したり、木星の周りをまわる衛星を発見したり、ついには太陽の黒点まで見つけました。

この頃から天動説は間違いで地動説が正しいと言うようになり、何度もカトリック教会から注意をうけました。しかし、星の観察により「地動説」が間違いのない事実であることを確認したガリレオは、自分の考えを曲げることができませんでした。その後も宗教裁判にかけられ、地動説は間違いだったと認めるよう何度も求められました。

69歳の時に、戯曲の形を借りて「地動説と天動説、そしてそのいずれでもない中立説の3説の対話」という形式をとった解説書「天文対話」という本に自分の考えをまとめました。

この本を出版したことでまた教会から呼び出されて宗教裁判にかけられました。何とか死刑は免れたものの終身刑を言い渡され、24時間見張り付きの軟禁状態で生活することになりました。「それでも地球は回っている」という有名な言葉がありますが、あれは後から付け足された説が有力です。

太陽を見すぎたために晩年は失明、それでも死ぬまで科学に対する情熱を失わず、のちの科学の発展に貢献しました。1642年1月8日、寒い冬の日に眠ったまま亡くなりました。77歳でした。

そして同じ年のクリスマスの日に、イギリスでアイザック・ニュートンが誕生しました。ひょっとしたら、ガリレオの生まれ変わりかもしれません…

ガリレオは有罪判決を受け終身刑のままなくなりました。しかし時は流れ、ガリレオが唱えた「地動説」が正しいと世界中の人たちが認知している現代になってから、やっと、ガリレオの地動説が認められました。
認めたのはもちろん、宗教裁判で有罪判決を下したカトリック教会です。

1992年、当時のローマ教皇、ヨハネ・パウロ二世が「ガリレオの宗教裁判を行った当時のカトリック教会の考え方は間違っていた」と認め、ガリレオの名誉回復を行いました。ガリレオの死後、350年経ってからのことです。

まとめると長文になってしまいました…児童書には難しいことは書いていません。できれば子供たちにはネット検索だけではなく、本も読んでネットにはない情報も集めてほしいと思います。

添乗の思い出の話を書こうと思いましたが、いろいろ書いていたら長文になってしまったので、続きは後編で紹介したいと思います。

最近はあまり更新をしていませんが、インスタグラムにも海外の写真をたくさんアップしています。
良かったらぜひ、見てください!

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