印象派の巨匠モネ②「印象派」の誕生とモネの睡蓮

花の小道 フランス

混乱の中、始まった「GO TO トラベル」キャンペーン

みなさん、こんにちは!アオテアロアです!

混乱の中、始まった「GO TO トラベル」キャンペーン、みなさんはどこかへお出かけされているのでしょうか?

私は近隣の移動だけで旅行は控えています。もう少しコロナの様子を見てから動いた方がいいのかな…と慎重に行動しています。

まだ梅雨明けもせず、明日からまた雨の予報…今年はいろんな所で豪雨による被害が発生していますが、みなさんの地域は大丈夫でしょうか?

毎晩、近くの田んぼからカエルの合唱が聞こえてくるのですが、カエルが鳴くのは夜だけだってご存知ですか?明るい時間にカエルを見に田んぼへ行ったけど、全く姿が見えないのに夜になると大合唱…カエルの家?はどこにあるのでしょうか?

シモツケ※シモツケ

このお花も前に散歩した時に撮った写真です。
散歩をするとあちこちの家の玄関先やお庭に可愛い花が咲いています。ちょうど今頃はジヴェルニーの「モネの庭」も色とりどりのお花がキレイに咲いていると思います。

※フランス ジヴェルニーの庭

みなさんはモネの絵を見たことがありますか?

一度くらいはどこかで目にしているかと思います。なんと日本には150点近いモネの作品があります!そんなにあるなんて驚きです。

モネと言えば「睡蓮」が有名ですが、モネが晩年暮らしたジヴェルニーの庭に咲く睡蓮を描いたもので、睡蓮だけでも200枚以上描いています。

『印象派の巨匠モネ①』では、モネの人生についてお話しましたが、今回は印象派の誕生と、モネがなぜ睡蓮を描くようになったのかをお話したいと思います。

※『印象派の巨匠モネ①』まだ読んでいない方は ↓ こちらをクリック!

印象派が生まれる背景にあったものは…チューブ絵の具!

モネの人生の話の中で、少年時代に住んでいた港町ル・アーヴルで画家のウジェーヌ・ブーダンとの出会いがありました。

ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出して、陽光の下で風景を描いていた先進的な画家でした。というのも当時は屋内のアトリエで作品を描くのが普通だったからです。

ブーダン※ブーダン ボルドー風景 1874年 ひろしま美術館

風景画を描く時も屋外で下絵のデッサンをした後、色付けはアトリエで行いました。理由は「絵具」にあります。昔は絵具を「豚の膀胱」に保存し、簡単に屋外へ持ち運ぶことができませんでした。

当時の画家たちは、自分たちで絵の具を手作りしていました。必要量の顔料を砕いて油で練り、出来上がった絵の具を「豚の膀胱」に詰めて保管し、絵を描く時に必要な分だけを少しずつ絞り出して使いました。時々、袋が破れて絵の具が飛び出たり痛んだりすることもありました。

1841年、試行錯誤の結果、イギリス在住のアメリカ人画家ジョン・G・ランドによって錫製のチューブに入った絵の具が発明されます。これにより画家たちは絵具作りから解放され、好きな時に好きな場所で絵を制作することが可能になりました

ブーダンは何度もモネを戸外のデッサンに誘いました。それまで、アカデミックな技術を学んでいたモネは、ブーダンと彼の作品や手法に出会ったことで、「新しい絵画の可能性」を感じ取り、この時の出会いがモネを画家にするきっかけになったと言われています。

ブーダンはモネに「自然の光と色彩の変化」を表現すること教え、これが後の印象派へと繋がっていきます。

※ルエルの眺め 1858年 埼玉県立近代美術館

ブーダンと訪れた近郊の村で描いた、最初の油彩画「ルエルの眺め」を初めて展覧会へ出品したモネは、その後パリへ行き画家としての人生を歩み始めます。モネの初期の作品「ルエルの眺め」は埼玉県立近代美術館に所蔵されています。

自然の中の「光」を追い求めて…印象派の誕生!

「印象派」とは名前の通り、実際に見た風景や人物など目に映る「印象」をそのまま描き、姿かたちだけではなく「光」の変化や「空気」までも表現しようとした新しい手法です。

※※印象・日の出 1872年 マルモッタン美術館 パリ

印象派が誕生する前は、フランス王立美術アカデミーが権力を持ち、このアカデミーが主催する公募展「サロン・ド・パリ」に展示されて初めて画家として認められる時代でした。ここで選ばれなければ画家として認められなかったのです。

主にサロンで描かれたのは歴史画や宗教画でその審査基準は厳しく、ポーズや構図にも決まりがありました。また「実際の人や物を、平面のキャンバスに本物であるかのように描く」という写実主義が主流の時代でもありました。

この考えに反発してサロンの基準に当てはまらない作品を描き、どこへも出品できずにいた画家たちが集結して、自分たちの作品を発表する場所を作ろうと開催したグループ展が、後に「印象派展」と呼ばれるものです。

サンラザール駅※モネ サンラザール駅ノルマンディーからの列車 1877年 シカゴ美術館

今でこそ印象派は世界中の人に認められ、その作品は広く愛されていますが『印象派の巨匠モネ①』でお話したように、第1回印象派展は酷評されてさんざんな結果に終わりました。

当時は伝統的な技法や写実主義などが主流だったため、印象派が描く「ただの風景」や、素早く描くためにあえて「筆さばきを残す」描き方は、中途半端で完成品とはいえないと全く評価されませんでした。

それでも印象派の画家たちはポーズや構図にとらわれず、テーマには日常的な風景や生活の一場面を選び、本物そっくりに描くことよりもその時に見た「印象」や「自然の光」を描くことを重視しました。そのため今までの屋内のアトリエを飛び出して、好んで戸外で作品を制作しました。

画家たちが戸外制作を始めた時、太陽のもとでみる自然の色の変化にとても驚きました。風景に光をあて、その「光」をキャンパスに表現する…

例えば木を描く時、木をそのまま写真のように描くのではなく、光が木にあたった時に放つ視覚的な色彩や、その時に受けたインパクトなど、見たままに感じた印象をキャンパスに描きました。

ポプラ※モネ 陽を浴びるポプラ並木 1891年 国立西洋美術館 

描き方は、絵具をたっぷり含ませた筆を使って、揺らめくような筆さばきでその瞬間ごとの印象を鮮やかに表現…これはチューブ絵具の発明により、どこへでも絵具を持ち運びできるようになったことと、一度にパレットにいろんな色を並べることができるようになったことで生まれた技法です。

「明るい色彩」で「軽やかなタッチ」で素早く描くことで「印象」を表現、基本的に原色を使い、絵具は色を混ぜる事よりも補色を効果的に使って光の変化や陰影を表現しました。(絵具は混ぜると色の透明度が落ち、濃くて暗い色になるので)

季節や天気、時の移ろいをキャンパスに描きこむことで表現の幅を広げ、自然の中にある「光」をいろんな色で表現する…これが印象派の絵の特徴です!

仲の良い友人だった同じ印象派の画家ルノワール

なかなか世に認めてもらえない印象派の画家たち、その中でもモネは同じく印象派の画家として有名になるルノワールと親交を深めていきます。

二人は時々、一緒に戸外制作に出かけて仲良く絵を描いています。
その中でも有名な作品に「ラ・グルヌイエール」があります。

当時は鉄道でパリ郊外へ水遊びに行くのが流行っていました。ラ・グルヌイエールは「カエルが住む沼地」という意味で、人気の行楽地のひとつでした。

水上カフェや貸しボートなどがあり、週末にはたくさんの人たちが訪れました。その楽しく賑やかな雰囲気を、二人はキャンパスを並べてそれぞれの感性で描きました。二人の作品がこちらです。

モネのラ・グルヌイエール※モネ ラ・グルヌイエール 1869年 NY メトロポリタン美術館

ルノワールのラ・グルヌイエール※ルノワール ラ・グルヌイエール 1869年 スウェーデン国立美術館

ほぼ同じ構図の絵ですが、この絵には大きな違いがあります。

モネは人物を風景の一部のように描き、水面に映る光の効果や自然を主体としていますが、ルノワールは自然の中で休日を楽しんでいる人々を主役にして描いています。

どちらの絵も、絵具を混ぜずに素早い筆さばきでその場の雰囲気を表現しています。

モネは年を取るとともに人物画が少なくなり、光と影を表現できる風景画が多くなりますが、ルノワールは生活苦から日常の風景だけではなく、多くの肖像画も描いています。その中にはモネを描いたものもあります。

※ルノワール 絵を描くモネ 1875年 

二人がとても仲が良かったことが、この絵からもうかがえます。今はどちらも世界的に有名な画家ですが、無名時代の頃の絵を見ると、何事もやり続けてこそ成功へと繋がっていくのだなと感じさせられます。

モネの最高傑作は…ジヴェルニーの「モネの庭」

最初の頃は人物画も描いていたモネですが、晩年が近づくにつれて人物よりも風景画や睡蓮を描くようになります。

1883年、42歳の時に移り住んだジヴェルニーを大変気に入り、7年後の50歳の時にそれまで借りていた家と土地を購入しここを終の棲家に決めます。この頃は絵も売れるようになり、貧乏から脱出して生活も安定していました。

ジヴェルニーはパリの北西約80kmに位置し、人口約500人、セーヌ川の支流エプト川が流れている小さな村です。家と土地を購入すると、家の前に広がる果樹園だった場所に庭を造り始めます。モネ自身が庭の設計をし、木を伐採して土地を耕し、家族総出で庭を造りました。

こうして完成した庭が「クロ・ノルマン」(ノルマンの囲い庭園)で四季折々の美しい花が咲く「花の庭」と呼ばれているお庭です。

ジヴェルニー

モネはフランスやイギリスを旅した時に見つけた植物を持ち帰ったり、画家仲間や日本の友人などから珍しい花などを送ってもらって庭に植えました。

日本からはユリやシャクヤクなどを取り寄せ、庭師のアドバイスを受けながらいろんな種類の花や植物を育て、理想の庭造りに情熱を注ぎました。

土地を購入してから3年後、さらに線路を挟んだ向かいの土地を購入し、そこにエプト川の分流リュ川から水を引いて「水の庭」の池をつくりました。池は全長60m最大幅20mという大きな池で、池の周囲にはしだれ柳や竹、ポプラなどが植えられ、趣のある落ち着いた日本風の「水の庭」が完成しました。

水の庭の竹林

池にはグリーンの太鼓橋が架けられ、睡蓮の季節になると日本風の太鼓橋としだれ柳に囲まれた池、光る水面に浮かぶ美しい睡蓮の花…モネは「水の庭」に理想とする庭を再現しました。

モネは絵を描くために睡蓮を植えたのではなく、池に咲く花を探して植えたのが睡蓮でした。こうして完成した「水の庭」を眺めて楽しんでいたある日、モネは突然気付いてしまったのです!

睡蓮

「私は自分の庭にある睡蓮の素晴らしさに気付くのに時間がかかった。睡蓮は楽しむために植えたもので、絵に描こうなどとは思ってもいなかった。ある日突然、私は自分の池の素晴らしさを発見した。私はパレットを手にした。その時以来、他のものを題材にすることはほとんどなくなった」(クロード・モネ財団刊の小冊子より)

水の庭と花

モネが睡蓮を描き始めるのは50代後半の1898年頃からです。1900年60歳の時に睡蓮の花と池と周囲の柳などを構図に描いた連作26点が発表されました。モネは晩年、同じ絵を何枚も描く連作を描くようになります。

※25点の連作シリーズ 積みわら、夏の終わり 
1891年 オルセー美術館 パリ

※33点の連作シリーズ ルーアン大聖堂 1892年
ポーラ美術館 神奈川県

モネの睡蓮ポーラ美術館※モネ 睡蓮 1907年 ポーラ美術館

たとえ一つの風景であっても、同じ瞬間はない…

四季折々、晴れや曇りや雨、朝昼夕、時間の経過と共にいろんな影響を受けながら変化していく風景…

その時間と光の移り変わりを表現しようと同じ題材からなる「連作」をたくさん描いたことから「光の画家」とも呼ばれています。

還暦を過ぎてからも精力的に睡蓮を描いたモネ、その晩年は…
『印象派の巨匠モネ③日本を愛したモネとその後』に続きます!

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モネについて、わかりやすく説明している絵本です!

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コメント

  1. RUMI より:

    ジベルニー。
    睡蓮まだ咲いてるかな?また夏に行きたいです。

    • aotearoa aotearoa より:

      どうでしょう…睡蓮が咲いている時期に訪れたいですね!
      もっとたくさん時間がとれるなら…モネのお墓も訪れてみたいです。