戻らない日常生活…
みなさん、こんにちは、アオテアロアです!
ながらくブログをお休みしていましたが、みなさんお元気でしたでしょうか?
ブログを休んでいる時(先月ですが…)京都にある、アジサイで有名な楊谷寺(柳谷観音)へ行ってきました。ここは数年前から「花手水」で有名になったお寺で、アジサイと紅葉の時期は特に美しいお寺です。今年の紅葉もキレイだと思いますので、機会があればぜひ足を運んでみて下さい。
世間はすっかり日常に戻りましたが、私の日常はまだ戻りそうにありません…
私が身を置く旅行業界は未だコロナの影響を強く受け続け、やっと国内旅行が動き始めましたが、再び海外旅行へ行けるようになるには、まだまだ時間がかかりそうです…
私と同じようにコロナで仕事がなくなった時間を有効活用しようと、ブログやYouTubeを始めた同業者の方が多いようで、いろんな方のブログやYouTubeを拝見しながら、人それぞれ視点や考え方、表現方法が違って面白いなぁと思いました。
※ブルースター
以前の散歩途中に撮りためたお花をアップしてみました。
毎回、最初にお花の写真をアップしているからか、何人かの方からお花がきれいな場所を紹介してほしいとのリクエストがありましたので、今回はフランスにある「モネの庭・ジヴェルニー」をご紹介しようと思います。
ジヴェルニーは世界的にも有名な印象派の画家モネが晩年を過ごした場所で、ここにはたくさんのお花が咲く美しいお庭と、睡蓮が浮かぶ池と日本風の太鼓橋があり、パリから日帰りでいけるので多くの観光客が訪れます。
ジヴェルニーを紹介する前に、簡単にモネのお話したいと思います!
※お花好きな方!一生分のチューリップが見られるキューケンホフ!👇
波乱万丈なモネの人生!画家になるまでの道のり
モネは1840年11月14日、フランスのパリで父アドルフ、母ルイーズの次男として生まれました。本名はオスカル=クロード・モネですが、クロード=モネとだけ名乗っています。
モネが5歳の時に一家でノルマンディー地方の港町ル・アーブルに引っ越します。父親はモネに雑貨店を継いで欲しいと思っていましたが、モネは画家になりたいといい、11歳でル・アーヴル美術学校に入学します。
モネが16歳の時に母親が亡くなり、モネは美術学校をやめて未亡人の叔母と一緒に住むことになりました。この頃にはモネは絵がとても上手だと町でも評判になり、風刺画などを描いて売ったりしていました。
ある日、海岸で画家のウジェーヌ・ブーダンと出会います。
ブーダンとモネは一緒に戸外で写生をするようになりました。ブーダンは、モネに屋外制作を勧めたことで知られる画家です。です。ブーダンはモネに油絵を手ほどきし、最初の油彩画「ノエルの眺め」を描きました。
※ルエルの眺め 1858年 埼玉県立近代美術館
19歳でモネは本格的に絵の勉強をしたいと、父親の反対を押し切ってパリに出ます。そしてアカデミー・シュイスに入学し、この時にカミーユ・ピサロと出会います。
21歳の時に7年間の徴兵を受けてアルジェリアで兵役につきますがチフスに罹って病床に伏し、この時に「大学の芸術コースを卒業する」という条件で叔母が軍隊に働きかけ、結局2年で除隊となり帰国します。
帰国後、大学に入学したものの昔ながらの芸術に嫌気がさし、シャルル・グレイルのアトリエに入塾、そこでシスレー、バジール、ルノワールらと出会います。
1865年、25歳の時にサロン・ド・パリ(フランス王立絵画彫刻アカデミーがパリで開催する公式美術展覧会)に2点の作品を初出品し、2点とも入選します。その後もサロンに入選を続けますが、1869年に落選してからは、しばらくサロンへの出品を控えます。
※緑衣の女性 1866年(妻のカミーユ)ブレーメン美術館
一定の評価を受けたものの、まだ絵が売れず極貧生活、父親からの仕送りで何とか生活をしていました。この頃に後に妻となる、絵のモデルをしていたカミーユと出会います。1867年には長男ジャンが誕生、しかしこの交際に反対していた父親から仕送りが打ち切られ、追い詰められたモネはセーヌ川に身を投げて自殺を図ります。
そんな苦しい中1870年29歳の時にカミーユと結婚、その直後に普仏戦争が始まり、兵役を避けるためにロンドンへ移住し翌年の12月にフランスへ戻ります。後年モネを成功へと導いた画商のポール・デュラン=リュエルと知り合ったのはこの頃です。
酷評だった「第1回印象派展」と、奇妙な共同生活…
1874年4月15日パリのオペラ座近くで「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」という名のグループ展が開かれました。
当時は画家が作品を発表する場所はサロン・ド・パリしかなく、古典的な美意識や審査基準からはみ出す新しい作品は出展を認められませんでした。新しい作品を生み出す芸術家たちが、自分たちの作品を発表する場を求めて企画したのが、後に「印象派」と呼ばれるグループ展でした。
ピサロを中心にモネ、ルノワール、シスレー、ドガ、セザンヌ、モリゾなど当時は全く無名の画家30名が集まり、自分たちの作品を出展しました。
この時に出展した作品の中で有名なのが、モネの代表作『印象・日の出』です。
※印象・日の出 1872年 マルモッタン美術館
この絵画を見た批評家ルイ・ルロワは「ただの印象を描いただけの稚拙な絵」と酷評、このことから皮肉なことにモネの絵のタイトルから『印象派』と呼ばれるようになりました。
約1か月の開催期間で入場者数は3千人ほど、サロン・ド・パリの約40万人という入場者数と比べると微々たる数字…それも来場者の多くは冷やかしや批評に訪れた人たちでした。新しい企画のもと開催された印象派展はあまり評価されませんでした。
この頃、印象派の画家たちの作品を購入していた実業家のひとり、エルネスト・オシュデ(1837-1891)とモネは親交を深めていきます。オシュデはパリのデパート王と呼ばれ、百貨店の経営で莫大な財産を築き多くの美術品をコレクションしていました。『印象、日の出』を最初に購入したのもオシュデでした。
※散歩・日傘をさす女性 1875年(妻カミーユと長男ジャン)ナショナルギャラリーワシントン
少しずつ絵が売れ始めた矢先、妻のカミーユが病気を患い体調が悪くなっていきます。そんな中、2人目の子供を妊娠、次男ミシェルを生んだ後、カミーユは寝たきり状態になってしまいました。
そんな時、モネのパトロンで実業家でもあったオシュデが事業に失敗し破産…
1878年、モネが38歳の時に病気の妻と二人の息子、オシュデ夫妻とその子供たち6人とで小さな村ヴェトゥイユに引っ越し、一軒家を借りて共同生活をすることになりました。
※アルジャントゥイユのひなげし 1873年 オルセー美術館
狭い家での12人の共同生活、病気で動けないカミーユに代わりオシュデの妻アリスがモネの2人の息子の面倒も見るようになり、次第にモネとアリスは心を通わせるようになります。そして、病気で動けないカミーユの世話をしたのもアリスでした…(昼ドラのような複雑な関係…)
現実生活にも精神的にも苦しくなったオシュデは自殺を図ったものの失敗(モネと同じ…)オシュデは職を探しに行くといって出て行ったきり戻りませんでした。(モネとアリスの関係に苦しんだ末の逃亡とも言われています)
残されたモネの肩にのしかかってきたのが、妻カミーユと2人の息子、オシュデの妻アリスと6人の子供たち…そんな苦しい生活の中、1879年、カミーユが32歳の若さでこの世を去ります
終の棲家ジヴェルニーへ!正式にアリスと結婚、幸せな晩年
妻を失い悲しみのドン底にあったモネを献身的に世話をしたのが、オシュデの妻アリスでした。モネは失意の数ヶ月を過ごし、アリスは一時パリに引っ越して自分の6人の子供と一緒にモネの子供の面倒を見ました。
妻を亡くしたモネと、夫が失踪したアリス…二人の関係はさらに深まっていきます。愛し合う二人でしたが一緒に暮らしても結婚はせず、1891年にエルネスト・オシュデが亡くなった翌年の1892年にようやく結婚しました。
1881年、印象派の画家たちのパトロンのひとりでもあった画商のポール・デュラン=リュエルの援助でモネはポワシーに引っ越し、そこでアリスと子供たちと一緒に新たな生活を始めます。しかし、この土地が気に入らなかったモネは1883年に終の棲家となるジヴェルニーに移り住み、1926年に亡くなるまでこの地で制作を続けました。
ジヴェルニーに移り住んだ後、モネはあちこち旅をしてたくさんの作品を描きました。また多くの連作も描くようになり、精力的に活動します。
モネの名声が高まるきっかけになったのが、1886年にニューヨークで開催された印象派の展覧会と言われています。
画商ポール・デュラン=リュエルは、フランスでは新しい画風の印象派の絵が受け入れられるのは難しいと判断し、1886年、新市場の開拓をめざして3人の息子と共に渡米、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開催しました。海外から印象派ブームを起こそうとしたのです。
全米初の印象派展は好評で、ポールは「アメリカの大衆は笑ったりしないで、絵を買ってくれる!」と大喜びした言われています。
絵画に対する固定観念のないアメリカでは、印象派の絵は広く受け入れられました。これにより印象派の画家たちの生活が安定するようになります。画商ポール・デュラン=リュエルは印象派を発掘した先駆者として世界で有名になります。
生活が安定するようになったモネは、1890年にそれまで借りていた家と土地を購入、いろんな所から多種多様な植物を取り寄せて「花の庭」を造りました。
そして1893年には隣接する土地を購入し、太鼓橋も架けて日本風庭園にし「水の庭」を完成させました。ジヴェルニーに移り住んでから43年後の1926年86歳でこの世を去りました。
晩年は白内障のために目が見えなくなったりしながらも、何とか描き上げた睡蓮の大作8枚は、モネが亡くなった翌年、オランジュリー美術館に納められました。
波乱万丈なモネの人生…ここに書ききれないエピソードがまだたくさんあります。
世界的に有名になった「印象派」とは?
なぜ、モネは睡蓮ばかり描くようになったの?
続きは👇『印象派の巨匠モネ②印象派の誕生とモネの睡蓮』で!
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モネの人生についてのわかりやすい絵本はこちら!👇
コメント
モネの生涯はいろいろあったんですね。
ジヴェルニーの美しく平和な庭園からは想像できませんでした。
パリに行けるようになったら、睡蓮を見に行ってみたいです。
いろいろあったのに絵を描き続けたことは、本当に尊敬です。
どんなに大変でも続ければ努力が報われるのですね…
パリへ行けるようになったら…
私もモネの人生を振り返りながら、モネの想いが込められた「モネの庭」を散歩したいです!
モネの生涯、、確かに昼ドラみたい
でも、睡蓮の連作素晴らしいですよね
芸術家って、波乱万丈な人生から得る「正と負」のエネルギーを作品に変えているのかもしれないですね…
ブログには書かなかったですが、アリスの末の子はモネとの間にできた子だという噂が…昼ドラ以上にドラマチックな人生かもです!